妙心寺 霊雲院での座禅 観光編2

  • 2016.09.28 Wednesday
  • 11:38


お寺での座禅体験の話の前に
座禅をする私なりの意味を記したいと

誰もそんなの求めてないだろうけど

仏教は他の宗教と明らかに違う

何が違うか、、、

お釈迦さまは
なくなる直前に
自己と法とを拠り所とせよ
けっしてそれ以外のものを
拠り所にしてはならないと
弟子のひとりに語ったという

自燈明 法燈明
これは画期的なことで

私(神?)の教えを拠り所にして生きなさいbr />
と説くのがほとんどの宗教

これは正しい
この教えに従えば万事OK

良い・悪い・善悪・美醜の判断は神がすることであって

個々人で決められたら
誰が天国にいけて、誰を地獄に落とすかを決められない
じゃありませんか
自分の生き方を自分で決めろというのは
釈迦が言うことが正しいという事も否定しかねない
宗教家として、かなり斬新な教義なわけです

ここでいう法とは
宇宙を統べる真理という感じで
哲学や存在論のように感じてしまえる
宗教にありがちな道徳とはかけ離れたものです
(私の理解は)

 

教義の強要とご利益のセット販売で迫る

あらゆる宗教と対極といえるかもしれません

日本の仏教は
神様や、善悪、極楽地獄でもって語られるじゃないか

と言われるとそうなんですが
どうも起源においてはそうじゃなかったようです


釈迦がなくなって伝来されながら
デフォルメされてそうなったのです

釈迦は「死後の世界はあるのか?」
と聞かれると
「無記」と答えていたみたいです
「答えない」、もしくは、「そんなのしらねえよ」といった感じでしょうか

偶像崇拝も釈迦に対する崇拝も否定しています

長くなりましたが
トコトン

自己と向きあう
自己に拠ることを説いた宗教

それが仏教なわけなのです

話がそれまくりますが
釈迦の死は弟子がつくったお粥かなんか
それを食べて
食当たりで死んでしまいます
 

神様の死で、こんな滑稽な死に方

あるでしょうか

復活もしないし・奇跡もおこさない
およそ超越者といえない死

これが仏教のリアルなわけです

ありえないドラマを作り上げて

だから神の教えを守れという宗教と対称的


他人に自己の人生を規定される
その奴隷となることは
仏教の教義に反するのです

一人の人と死ぬことで
神様として、超越者としての釈迦を否定し
彼の説くリアリズムな真理を裏打ちしていて痺れます
私だけでしょうか(笑)


では仏教的な自己とはなんぞや
座禅でそれが分かるのか

分不相応な難問に次回も挑戦します?





 

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